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古日記から探る「安政江戸台風」の経路

 平野淳平

 夏から秋にかけて日本へ接近・上陸する台風は、しばしば、大雨や強風によって大きな被害をもたらします。そのため、台風経路や、台風に伴う降水分布に関する研究は、気候・気象学のみならず、防災対策上も重要なテーマであるといえます。地球温暖化の影響によって、将来、台風の頻度や強さが変化する可能性については多くの研究が行われ、社会的にも関心を集めています。一方、現在や将来の防災対策を考えるためには、過去に発生した台風災害の特徴、規模を正確に理解することが重要です。ここでは、1856年(安政3年)に江戸湾で大規模な高潮被害を発生させた「安政江戸台風」を例として、古日記天候記録から台風経路を推定する試みについて紹介します。

「安政風聞集」より  国立公文書館提供

 

1856923日から924日(安政3825日から26日)に強い台風が江戸付近を通過し、江戸湾で大規模な高潮が発生しました。この高潮によって江戸湾周辺では広域で浸水被害が発生したほか、各地で火災も発生し、死者は10万人に達したともいわれています。当時の被害状況は様々な古文書に残されています。例えば、武蔵国江戸(武江)の斎藤月岑による『武江年表』(今井,2004)には、次のように書かれています。「八月二十五日、暮て次第に降しきり、南風激しく、戌の下刻より殊に甚しく、近年稀なる大風雨にて、喬木を折り、家屋塀墻を損ふ。又、海嘯により逆浪漲りて、大小の船を覆し、或は岸に打上、石垣を損じ、洪波陸へ溢濫して家屋を傷ふ。この間、水面にしばしば火光を現す。此時、水中に溺死・怪瑕人弄ふべからず」。このような過去の台風災害の教訓を防災対策に生かすためには、当時の台風経路を可能な限り正確に復元し、どのような条件のもとで被害が発生したのか明らかにすることが必要です。

 

表1 「安政江戸台風」襲来前後の各地の風向変化(平野,2017)
1856年9月23日―9月24日(安政3年8月25日-8月26日)
矢印は風向の変化を示す。

 

923

924

ハリス日本滞在記

下田

 

東南東→激しい颱風→南南東の風→南南西の風→西北西の風

 

関口日記

横浜

 

亥ノ刻前より大嵐

東風→巽風(南東風)

 

晴天

鈴木平九郎公私日記

立川

夜ニ入冷気を暖ク返し南風出、夜四ツ時より大雨降る

(昨夜)昨夜ニ入東風吹出し→西ニ返し追々和らき候

三右衛門日記

玉村町

 

フル

(昨夜)大嵐丑寅(北東風)→夜七ツ頃カ北風ニ成る

 

  1856年当時、日本には、まだ現在のような気圧や風向・風速の観測記録はありません。しかし、当時の日記に記録された風向の時間変化から台風経路を推定することは可能です。安政台風の経路については、坂崎ほか(2015)が主に各地の高潮記録から台風が伊豆半島東側を北上したと推定していますが、ここでは陸上の風向記録から台風経路を推定したいと思います。一般に、ある地点の西側または北側を台風が通過する場合、その地点の風向は「東西」と変化します。一方、台風がある地点の東側や南側を通過する場合、その地点の風向は、「東西」と変化するので、日記に風向の時間変化が記録されていれば、台風経路を推定することができます。

図1 古日記天候記録をもとに推定した「安政江戸台風」の推定経路図       
 図中の矢印は台風の推定経路を示す。(平野,2017)

 

伊豆下田の『ハリス日本滞在記』によると、台風が通過した際に下田の風向は表1に示すように、東南東南南東南南西西北西と変化しました。このことから、台風は、下田より西側を通過したと推定できます。つまり、台風は伊豆半島西岸か、駿河湾を北上した後、本州に上陸した可能性が高いといえます。それでは、本州に上陸した後、台風はどのように進んだのでしょうか。上記の『武江年表』の記述から、江戸では強い南風が吹いたことが分かります。また、表1に示すように、横浜の『関口日記』や東京都立川市の『鈴木平九郎公私日記』には、強い南風や東風が吹いたことを示す記述があります。このことから台風は、横浜や立川よりも西側の地域を通過したものと推定できます。一方、群馬県玉村町の『三右衛門日記』には、台風通過時に風向が丑寅(北東)北風へ変化したこと書かれています。これらの記録をもとに経路を推定すると、図1に示すように、台風は現在の東京都多摩地区付近を通過後、江戸と玉村町の間の埼玉県中部付近を北東へ進んだものと考えられます。この際、台風の南東側に位置する江戸湾で、気圧低下に伴って海面が持ち上げられる「吸い上げ効果」と、強い南風によって海水が吹き寄せられる「吹き寄せ効果」が相まって高潮が発生したと考えられます。

関東地方を通過後、台風が東北地方を縦断したのか、それとも、北東へ進み、太平洋へ向かったのか明らかにするためには、東北地方や北関東で風向の時間変化を記した史料をさらに収集する必要があります。歴史時代には、気圧の観測値が得られないので、台風の強さを推定することは困難ですが、東京湾で高潮が発生する条件の一つとして、「安政江戸台風」と同様の経路を通る強い台風を想定することは重要であるといえます。

  文献

 斎藤月岑著 今井金吾校訂(2004)『定本 武江年表,下』ちくま学芸文庫.
ハリス,T. 著,坂田精一訳(1954)『ハリス日本滞在記 中』岩波文庫.
平野淳平(2017)「歴史イベントと気候との関わりをどう教えるか―歴史気候学からの視点」『地理の研究』197,9-17.
坂崎貴俊・加納靖之・大邑潤三・服部健太郎(2015)「安政江戸台風(1856)の被害と当時の気象場推定」『生存圏研究』11, 64–70.

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